古代エジプトの医療—神になった男 イムホテップ
■作成日 2018/2/26 ■更新日 2018/5/9
元看護師のライター紅花子です。
このコラムでは、医学・医療・看護の歴史や、その分野が発展する上でターニングポイントとなる「ひと」「こと」「もの」などを取り上げ、ひも解いていきます。
突然ですが、「エジプト」と言われて思い浮かべるものは、何でしょうか。ピラミッドやスフィンクスなど「建造物の遺跡」や、ツタンカーメンやクレオパトラなどの「ファラオ」と呼ばれていた王の名前をイメージする人が、多いのではないでしょうか。
はるか遠い昔、実際に見聞きしたわけではない時代を思い浮かべてしまうほどの強いイメージを、現代の私たちにうえつける『古代エジプト』とは、どのような時代だったのでしょう。
今回は、『古代エジプトの医療—神になった男 イムホテップ—』を取り上げていきたいと思います。
そこには、どのような歴史物語があったのでしょうか。
『古代エジプト』とは
エジプトの統一国家(王朝時代)の始まりは、紀元前3000年ごろとされていますから、今からおよそ5000年前ということになります。
そこからローマの属州となる、紀元30年までの間の3000年間が、古代エジプトと呼ばれている時代です。
この非常に長い期間の中で、どのような医療や看護が、人々になされていたのでしょうか。
想像を絶する年月の流れですが、古代エジプトには非常に高度な文明があり、王朝時代の初めころにはヒエログリフと呼ばれる文字体系が確立していました。
これは、絵文字の原形をほぼ完全にとどめる象形文字で、聖刻文字とも訳されます。
このヒエログリフや壁画などの絵が、墓の壁面やパピルスに残されていることで、数千年前のその時代について知ることができるのです。
ちなみにそのころの日本は
そのころの日本は、縄文時代の真っただ中です。
動物や木の実などの食物を得、縄目模様のついた土器(縄文土器)を使い、熱を加えた食事を摂ることができるようになっていました。
また貝塚が残っていることから、貝も日常的に食されていたことが分かります。
動物の骨などを利用した道具を作製し、使用していたことも分かっています。
安定して食物を手に入れられるようになったことで、それまでの移住生活から、水辺に近い台地での定住生活になっていった時代でもあります。
看護や医療というほどではありませんが、安産の願いを込めた祈りの対象や、祈りそのものを表すものが、女性をモデルとして作られた「土偶」なのではないかとされています。
エジプト文明の発展を支えた、ナイル川の恩恵
『エジプトはナイルの賜物』という有名な言葉がありますが、古代に高度な文明を生んだ地域には、必ず大きな川がありました。
それはエジプトも同様で、先の名句のごとく、人々はナイル川沿岸で生活をし、多くの恩恵を受けていたのです。
ナイル川の水を、飲み水として使ったり、洗濯用水にしたり、旅行や輸送の手段として、ナイル川はエジプトの生活そのものと言っても良いのかもしれません。
そしてナイル川の大きな恵みが、その肥沃な沖積土(川に堆積した粘土質の土砂で、たくさんの有機物を含む)です。
実はナイル川は、毎年7月~10月にかけて、両岸を大きく浸水するほどの氾濫を起こしており、肥沃な土も一緒に、川岸の土地に堆積させていました。
この氾濫によって、川の両岸は非常に豊かな耕作地となったのです。
この氾濫に対しては王朝時代に入る前の時代(先王朝時代)までには、灌漑方式が整えられました。
川の氾濫を人工的にコントロールし、通常では水が不足する地域でも土地を潤わせることで、人が増えるにつれ、耕地面積も拡大していったと考えられています。
しかし、常にナイル川と密接に関わる生活をしていたがために、古代エジプトの人びとを苦しめるものをもたらしたのもまた、ナイル川でした。
いくら灌漑が整ったとはいえ、氾濫の規模は毎年毎回同じではありませんから、その規模が大きすぎれば水害が発生し、土地には水分が過度に浸透します。
逆に規模が小さすぎれば、水分量が足りないことになってしまいます。
その結果、度重なる水害が感染症を蔓延させ、一方で氾濫するほどの水量が無い年は、不作や飢饉から栄養状態の悪化を招くこともあったようです。
飢饉については、紀元前2400年ごろのピラミッド内部に壁画が残されています。
医療に関する記録
前述の通り、ヒエログリフが確立されていたことで、古代エジプトを知る多くの記録が残っています。そのうち、医療に関する記録が残されたパピルスは複数存在していますが、中でも特に有名なのが、『エーベルス・パピスル』と『スミス・パピルス』と名付けられている2種類のパピルスに残された記録です。どちらも19世紀後半にルクソールで手に入れられた(発見された)もので、入手した人物の名前が付けられています。
手に入れた人物 | 入手時期 | 書かれた時期 | 分野 | |
---|---|---|---|---|
エーベルス・パピルス | ドイツの研究者ゲオルグ・エーベルス | 1873~1874年 | 紀元前15世紀ごろ | 主に薬学、婦人科学、衛生学 |
エドウィン・スミス・パピルス | イギリス人エドウィン・スミス | 1862年 | 紀元前17世紀ごろ | 外科学 |
この2種類のパピルスは、古代エジプトの医療を知る上での非常に貴重な資料となりました。さらに、ミイラの分析調査精度の向上によって、より多くのことが判明してきました。
故人をミイラにする意味
古代エジプトを知る大きな手掛かりとなったのが「ミイラ」です。
この“死んだ人間をミイラにする”という行為こそが、古代エジプト人の死生観と大きくかかわっています。
古代エジプトでは、「生命の根源は大気中にある特殊な気体が身体内に入り、生命現象を起こす」と考えられていたようです。
その生命現象が尽き、人が死を迎えると、その霊魂は地下にいる「死の神」のもとへ行きます。
そして「将来またこの世に戻ってくるとき」に、霊魂が宿るべき「肉体」さえ残っていれば、その人は再生できると深く信じられていたそうです。
今考えると、なぜそのように考えたのか、疑問がたくさんあるのですが、当時はこの考え方により、「死体をミイラとして保存する」技術が発展し、そこから包帯術や防腐術が発展しました。
ミイラ技術は、リンネルと呼ばれる包帯を巻きつけるだけの技法から、大きな改良が幾度も行われ、紀元前1000年ごろに最も洗練されてきたといわれています。
ただし、このミイラ技術は非常に高額となるため、裕福なごく限られた人(王など)だけが利用できたようです。
現代でもその全容についての研究が続けられ、多くの人を魅了してやまない、古代エジプト文明。
その巨大かつ永続した文明を支えていたのは、歴代の王によって築き上げられた「統治・労働・交易の社会システム」だったといわれています。
当時の日本よりも数段進んでいた古代エジプトでは、どの様な医療体制が整備されていたのでしょうか。
次の項目から、古代エジプトの医療とそれを支えたスーパーマン、イムホテップについてみていきます。
この時代の医療と看護、人びとの意識
古代エジプトの医療(医術)は、
- 神官が神への呪文でのお告げを仲介して病気の経過を予言する『魔法医術』
- 病気を観察し事実を記録し、経験の積み重ねから結果を予測する『経験医術』
この2つがが併存していたと考えられています。また、医師の役割は高度な専門科が進み、さらに「階層」として組織されていました。
医療を受ける側(患者)は、完全に無料だったようです。
その理由は「医師には国家からの支給があった」ことです。
古代エジプトで医師という職業ができたころには、そもそも「一般民衆が診察を受ける」というものではなく、基本的には「ファラオ(王)や宮廷の人たちが享受できるもの」だったようです。
神聖な医学書に基づいた医療を提供して失敗してもとがめられることは無かったようですが、これに反した診療により失敗すれば処刑という、イチかゼロかの世界でした。
診察内容も、現代の診察に引けを取らない充実ぶりで、外見の変化や意識の状態、聴力、匂い、震え、異常な分泌やむくみの有無を診察し、それを記録していたとのこと。
体温や脈拍測定、打診、尿・排便・痰の観察もしていたといいますから、驚きですね。
この時代にはすでに、体調不良とこれらの変化の関連が分かっていたということです。
こういった古代エジプトの高い水準の医療は、近隣(他国)の有力者を往診したり、外国から多くの貴族が診察に訪れたりすることもあったというほどです。
看護ついては家庭看護が中心で、看護者は主に「奴隷」と呼ばれる人たち。
女性ではなく、男性がメインだったようです。
家庭での療養が必要な場合は、これに「肉親による看護」が加わります。
当時はまだ「看護」は職業としてではなく、国に雇われた医師の手伝いをする「看護人」として存在していたようです。
つまり、「医師」というだけで階級はかなり上の人たちですから、医師の所有する人材(奴隷)が、主人である医師の仕事を手伝う、ということです。
それ自体を生業とする、いわゆる「職業看護者」についての資料は、見当たりませんでした。
ただ、家庭看護が中心だったことから、医師の指示や看護人の手際に従い、家族が看護するという、現代の「在宅での療養」と、似た部分があったのかもしれません。
一方、古代エジプト人は非常に衛生意識が高く、予防医学を重視していたようです。
浴室を備えた住宅に住み、清拭や入浴、口と歯を磨く、食事前の手洗い、髪と爪を整える(整容)、頻繁に着替えるなどの「健康を維持する生活習慣」が、宗教的戒律として定められていました。
さらに、健康維持のための規律もあり、特に食事についての細かい決まりごとがありました。
同じ時代にあって、ここまで衛生や健康の意識が高い国も他には見当たらないのではないでしょうか。
衛生面や日ごろ口にするものに意識を払った生活と、「やりたいようにやる生活」とでは、病気やケガに見舞われた場合、その後の状況は随分変わっていたのではないかと、筆者は想像しています。
薬剤の記録
古代エジプトでは高水準の医療が提供されていたようですが、医師の技術や知識だけでなく、多くの薬剤も使用されていました。
古代エジプト1回目の記事で触れた『エーベルス・パピルス』には、900種類にも及ぶ薬剤が記されており、トレペンチン、センナ、ヒマシ油、タイム(ジャコウソウ)など、近代の薬学にもその効用がみとめられているものが、多く含まれています。
古代エジプトで薬効のある植物として知られていたのは、催眠・鎮痛効果のあるマンドラゴラ(=マンドレイク)、麻酔薬や幻覚薬としてのヒヨスがありました。
チョウセンアサガオも多く繁殖していたようです。
また、サフラン、シナモンといった、香辛料や香料などの外国産の植物も利用されていました。
外科治療の記録
『エドウィン・スミス・パピルス』は、そのほとんどが外科学に関する記録でした。
骨折の治療や結石の摘出、眼の手術や腫瘍の除去などについての記録が残っています。
いわゆる“手術”が行われていたことは驚きですが、それを裏付けるものとして、遺跡からはピンや剪刀、ナイフなどが発掘されていたり、壁画には手術シーンや手術器械が描かれたものがあります。
また、外科治療に使用した麻酔についても記録が残っており、阿片と思われるものの使用や、タールの砕石と思われる粉末を局所に用いて痛みを和らげる方法などが、記録されています。
イムホテップが持っていた、マルチな才能
ナイル川は毎年ある時期になると氾濫を起こし、それが良くも悪くもエジプトの人びとの生活に多くの影響を与えているわけですが、ある時期、7年に渡って一度も氾濫せず深刻な飢饉が起こっていたことがありました。
時は紀元前2600年代、ジェセル王の時代のことです。
この頃の古代エジプトでは、絶対的な中央集権国家体制が確立されており、王の権力は絶大であり、その死後は来世で復活すると信じられていました。
王は没後、神々や祖先の霊たちに仲間入りをし、現世の人びとにも影響を及ぼすとも信じられて、王の神格化が強化された時代でした。
このジェセル王の宰相に、イムホテップ(イムヘテムとも)という人物がいました。
イムホテップは記録に残るだけでも、神官であり書記、天文学者、数学者、物理学者、建築責任者、そして医師と、多くの顔を持つスーパーマンだったようです。
ある時、ジェセル王がイムホテップに「氾濫しないナイル川についてどうしたらよいか」と聞いたところ、イムホテップは「ナイル川の水源の主である、アスワンにある“クヌム神殿”への土地の寄進」を進言しました。
ジェセル王がそれに従ったところ、クヌム神は願いを聞き入れ、エジプトは救われたという文書が残っています。
さらにイムホテップは、現代人の多くが頭に描くであろう、階段型のピラミッドを作った人物としても有名です。
それ以前、王の墓は「マスタバ墳」というベンチ型の墓でした。
ジェセル王の墓も最初は伝統的なマスタバ墳として造られました。
しかし建築の責任者だったイムホテップが改築を重ね、マスタバ墳を階段式に積み重ねていくという、斬新な「階段式の墓=ピラミッド」に変えたと言われています。
病院と医師の始まり、神格化されたイムホテップ
イムホテップの死後、彼が葬られた墓を参拝した人の病気が治るという奇跡が起こり、墓を囲む形で寺院が建てられ、寺院はやがて巡礼の場所となりました。
これが病院のはじまりであり、神官が治療者として重要な役割を果たしていたことが、「医師」という職業をさらに発展させたと考えられます。
彼の死からかなり経過した紀元前7世紀頃に、イムホテップは知恵の神トトの信仰と結び付けられ、『知恵・知識・医術の神』として神格化されています。
王ではない人物が神として祀られ、神殿まで建設されたのは、古代エジプトの長い歴史の中でも非常に珍しいことです。
信仰の地は、最初に階段ピラミッドを作った地「サッカラ」の他、数か所に設けられ、巡礼の地となりました。
非常に高度な文明である古代エジプトに存在していた、確かな医療の世界は、現代の医療水準からみて驚かされることばかりです。
この古代エジプトの医療や薬剤の知識は、当時の世界最高であったと言われています。
現代にも繋がる医療体制と、それを支えたイムホテップのマルチタスクな働きぶりは、現代でもなかなか真似ができ無いことではないでしょうか。
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