鎌倉時代の医療と看護3—慈悲ガ過ギタ僧 忍性
■作成日 2018/2/26 ■更新日 2018/5/9
元看護師のライター紅花子です。
このコラムでは、医学・医療・看護の歴史や、その分野発展の上でターニングポイントとなる「ひと」「こと」「もの」などを取り上げ、ひも解いていきます。
今回は『鎌倉時代の医療と看護3—「慈悲ガ過ギタ」僧 忍性』です。そこにはどのような歴史物語があったのでしょうか。
奈良の西大寺を拠点とし、律宗の布教と救療活動をおこなっていた「叡尊」のもとには、各地からその教えを請い、たくさんの僧侶が集まってきていたことは、前々回の「良忠」や、前回の「性全」でお伝えしました。
その中に「忍性」という人物がいました。今回はこの忍性を中心にお話ししたいと思います。
忍性の人物像
忍性は幼いころから仏を信じていて、自身の母親の死をきっかけに出家、各地で修行をしていました。24歳の頃には西大寺に住み、叡尊※1を師として修行をしています。
叡尊はすでに多くの救療事業をおこなっていて、それをそばで見ていた忍性が救療活動へと没頭していくことは、とても自然な流れだったのではないでしょうか。
その後忍性は、奈良に常施院や悲田院を設置し、多くの病人や障害者を収容、看護を行いました。
※1 叡尊:高野山で真言密教を学び、のちに衰退していた奈良の西大寺を復興した僧侶で、前回の「性全」の師匠でもある
「文殊信仰」という思想
忍性が後世に語り継がれるほどの救療活動をおこなった根底には、「文殊信仰」があったと言われています。
その信仰は、『人は慈悲をおこなうことによって、文殊菩薩と対面できる』というものです。
文殊菩薩は困窮者の姿を借りて現れるとされているため、特に救療活動に力を入れていたのでしょう。
また、かつて文殊菩薩の再来といわれた「行基」が、救療事業で業績を残したことに倣っていたとも言われています。
文殊菩薩は、師である叡噂も信仰していたといわれていますので、師弟でこの思想をベースにし、多くの救療活動をおこなっていたようです。
奈良での救療活動
忍性が26歳の頃には「北山十八間戸」という施設を奈良の北部近郊に建てています。
この施設はハンセン病患者の収容所でした。
この当時のハンセン病は、前世の悪行のため仏神の罰を受けて発病すると信じられていました。
罹患すると、肉親からは遠ざけられ、「非人」となり生業も許されないため物乞いするほかなく、病気が悪化すればそれにすら出ることすらままならなくなり、あとは死を待つのみとなる、そのような病気だったのです。
忍性は、施設を建てただけでなく、毎日、重病人を背負って街なかまで連れ出し物乞いをさせ、夕方には連れ帰ったというエピソードが書物に残っています。
他にも、10,000人を超えるハンセン病患者を集め、食べ物を用意し、仏の道を説いて聞かせたり、晩年には廃れていた大阪の四天王寺の四箇院を復興するなどの業績を残しています。
奈良から東国へ
1252年、忍性は真言律宗の布教を目的に東国へ向かいます。
現在の茨城県で精力的に布教活動をおこない、東国でも真言律宗の教えや忍性の名も広がってゆきました。
1256年には、執権北条時頼に依頼された疫病流行時の祈禱を成功させたことで、忍性の名は権力者にも認められるところとなっていました。
そしてついに、1261年には北条氏の招きによって政治の中心地である鎌倉に入ります。忍性が51歳となった1267年、ついに「極楽寺」を開山したのです。
10の誓い
忍性は極楽寺を真言律宗の東国布教の拠点とするとともに、ここを中心とした救療活動・慈善事業をおこなっていきます。
忍性が56歳の頃に立てた誓いに、どのような思いをもって数々の活動をおこなっていたのかを知ることができます。
極楽寺を中心とした救療活動、社会活動へ
忍性のおこなった救療事業の規模を知ることができるものとして、室町時代に描かれた最盛期の極楽寺の図が残っています。
広大な敷地の周辺になどさまざまな救療施設が描かれており、この大規模な活動には、前回スポットを当てた「性全」も力を貸していました。
後に性全は忍性の意思を継いで、極楽寺を中心とした救療活動を行い続けます。
忍性が鎌倉で行った主な救護・療養活動
- 飢饉の際、難民となった人々に50日間、食事(粥)を用意
- 悪疫流行の再、極楽寺門前に病人を集め、多くの僧侶により看護
- 薬草の栽培
- 拠点である極楽寺の境内に、5つの救療施設を設置(下図参照)
この他にも、極楽寺の東隣に分院のような施設を建て、「差別なく病者を入院させる」という活動も行い、患者数は20年間でのべ5万人程度はいたそうです(諸説あり)。
忍性自身が、患者に「常に容体を聞いて回った」という記録があります。
さらに、忍性の活動は土木工事にまで発展し、多くの架橋や道路整備、貿易港の整備などもおこない、市民生活や経済活動の大きな助けになりました。
「慈悲ガ過ギタ」とはこれ如何に?
現在の極楽寺は小規模ながらも、紫陽花などの花で有名な寺院としてその姿を残していますが、かつてこの土地には「大規模医療・看護センター」が存在していたのです。救療活動で得た功徳も他の者に施し、その活動に生涯を捧げた忍性。
このような忍性の活動を知った師 叡尊は「良観(忍性のこと)ハ慈悲ガ過ギタ」と述べています。つまり、民衆を救う姿勢を貫いた忍性は、その姿を見た師匠さえも呆れてしまうほどの「慈悲」を持っていた、ということです。
さいごに
3回に渡って3人の僧侶による鎌倉時代の医療と看護を見てきましたが、共通するのは「慈悲のこころ」でした。
「相手を思う気持ち」で医療・看護をおこなうことは、わたしたち現代の医療者も決して忘れてはならない心ではないでしょうか。
【参考資料】
1.系統看護学講座 別巻 看護史
2012年2月1日 第7版第10刷 著者代表 杉田暉道 株式会社医学書院
2.日本の医療史
昭和57年9月30日 第1刷 著者:酒井シヅ 東京書籍株式会社.
3.忍性と福祉の領域に関する一考察 埼玉学園大学紀要(人間学部篇)第9号 日高洋子
4.神奈川県北西・湘南地方の医史跡めぐり
http://square.umin.ac.jp/mayanagi/kjsmh/hokusei4.pdf
5.大阪日日新聞
なにわ人物伝 ―光彩を放つ― 忍性
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/100213/20100213039.html