看護の歴史物語 鎌倉時代の僧侶
■作成日 2018/2/26 ■更新日 2018/5/9
元看護師のライター紅花子です。
このコラムでは、医学・医療・看護の歴史や、その分野発展の上でターニングポイントとなる「ひと」「こと」「もの」などを取り上げ、ひも解いていきます。
今回から3回に渡り、鎌倉時代の日本にスポットをあてますが、まずは『ターミナルケアの書を残した僧 良忠』について見ていきたいと思います。そこにはどのような歴史物語があったのでしょうか。
鎌倉時代について
朝廷を中心とした貴族文化華やかな平安の時代を経て、武家政権となったのが鎌倉時代です。しかし、鎌倉幕府建立の中心人物であった源頼朝は、数年で亡くなってしまいます。
その後に家督を継いだ人物も失脚したり殺害されたりと、1219年には、源氏は断絶してしまいます。わずか30年足らずで、源氏の時代は終わってしまいました。その後の御家人どうしでの権力争いの結果、絶大な権力を持った北条一族による執権政治、専制政治の世へと、時代は進んでいきます。
この時代は気候が安定せず、冷夏や夏の降雪、大雨大風などの異常気象が繰り返し起こっていました。更に天災や飢饉、疫病流行が続き、人々にとっては「安心した生活ができない」時代だったのです。
鎌倉時代の医療
鎌倉時代の医療は、仏教との強いつながりがありました。医療を提供する人材を「僧侶」が担うことが多く、それまで以上に仏教が広がった時代でもありました。
仏教の広がり
平安時代までの仏教は、一般庶民にとっては非常に遠い存在。信仰は、高貴な人々や特権階級の人たちのためのものでした。教義が難しく、高い教養が必要とされていたためです。また、僧侶も貴族出身者が多かったためか、
- 時の権力者の結びつきが強い
- 貴族同様に里で暮らしていた
- 広大な私有地を管理し、税金の徴収まで行っていた
という状況だったようです。
このような仏教界の有様を憂いた僧侶たちの中から、「鎌倉六宗」と呼ばれる、わかりやすい教えで一般民衆を救う「新しい仏教宗派」が興ります。鎌倉時代は、仏教のすそ野が広がった時代と言えます。
末法思想
浄土宗は、鎌倉六宗の中で最初に開祖された宗派で、法然の説く「ただ念仏を唱えれば極楽浄土にいける」という教えは簡単でわかりやすく、多くの庶民に受け入れられ、急速に広がっていきました。その背景には『末法思想』という考え方が広く信じられていたということがあります。
『末法思想』とは、釈迦の滅後、年代が経つにつれ正しい教えが衰退するという思想のことで、平安中期ごろから徐々に広まってきていました。
1052年にいわゆる「末法」という時期に入ったとされ、「世の中の乱れ」により、人々の間では厭世観や危機感がかきたてられていました。そのような風潮気の中、浄土宗のわかりやすい教義と『極楽往生』という教えに、人々は敏感に反応したと考えられています。
鎌倉時代の医療に貢献した人物、良忠と『看病用心鈔』
浄土宗を開祖した法然の時代から少しあと、浄土宗の三祖※1で良忠という人物がいました。良忠は現在の島根県に生まれ、16歳で出家、天台密教を皮切りに、さまざまな教えを求めて日本各地を修行して回ります。
多くの経典を学び、34歳で一旦郷里に戻りますが、ある時、現在の福岡へ向かいます。そこには、浄土宗の二祖となっていた「弁長」がいました。弁長を訪ねた翌年、弁長から全てを学び受けた良忠は、浄土宗の三祖となりました。
後年は政治の中心地であった鎌倉へ移り、のちの光明寺となるお寺に住まい、関東で浄土宗を広める中心となりました。著述にも力を入れ、多くの著作を残しています。
※1 三祖:一般的な言葉では「三代目」に近い言葉。その宗派を起こした人物が開祖、その後を嗣いだ(ついだ)人物を二祖と呼ぶ。三祖は二祖を嗣いだ人物のこと。
その良忠が43歳のころに書き記したのが、『看護用心鈔』です。これは、現代でいうところの「ターミナルケア」「看取り」をテーマに書かれています。
良忠の残した、日本最古のかな文字本、『看病用心鈔』
世間は、浄土の教えが広がるにつれ、極楽往生を願う気持ちから、生死の境、つまり「臨終」に強く関心を持つようになっていました。「臨終」の際のお作法などについては、この時代よりもずっと以前に「臨終行儀」と呼ばれる書物に記されていました。良忠は、唐代の僧侶や平安時代や同時代の日本の僧侶によって書かれた書物などでよく学んでおり、自著の書物の中で臨終行儀について語っているものもあります。
このような流れの中、良忠自身の考えを織り込みつつ、これまでの日本の仏教での臨終行儀を集大成したのが『看病用心鈔』だと言われています。『看病用心鈔』の大きな特徴は「かな書き」であったことです。これは、日本最古の、かな書きによる看護に関する単行本という、歴史的価値のある書物でもあります。
『看病用心鈔』には、看病人や病人の心得が19条に分けて述べられています。その序文には、「病人となった時には看病人を慈悲ある仏のように思い、看病人はわが子を思うような心を持って世話をすること、看病人は病人の心の動きをしっかりと把握できるようにしておくこと、そのために心得ておくことを書き記しておく」とあります。
19条の心得には、病人を取り巻く環境や看病人の作法、死の受け止め方、遺言、死語の処置など、多くのことが書かれており、さらに「医療とは延命ではなく苦痛の緩和である」と述べられています。この考えは、看病とは仏(慈悲)の心で行う、というところにもつながっているのではないでしょうか。19条の後記には、ひたすら病人が安らかに息を引き取れるように祈ることを最優先にし、傍らにいて勇気づけ、心休まるように配慮するように、と締められています。
命の終わりに深く向き合い、現代にもそのまま通じる「ターミナルケアの心得」を残した、良忠が生きた鎌倉時代。仏教の一般庶民への広がりとともに、医療・看護の担い手として、慈悲の心で実践する「僧侶」が大きく活躍した時代でもありした。看護の黄金時代と呼ぶにふさわしい時代だったのかもしれません。