鎌倉時代の医療と看護2—優れた医学書を残した僧 性全
■作成日 2018/2/26 ■更新日 2018/5/9
元看護師のライター紅花子です。
このコラムでは、医学・医療・看護の歴史や、その分野発展の上でターニングポイントとなる「ひと」「こと」「もの」などを取り上げ、ひも解いていきます。
今回は『鎌倉時代の医療と看護2—優れた医学書を残した僧 性全』です。彼が残した医学書ができるまでには、どのような歴史物語があったのでしょうか。
鎌倉時代について
前回もお伝えしているとおり、鎌倉時代とは、一般庶民にも仏教が広がっていき、医療の担い手は「僧医」、つまり僧侶が活躍していた時代でした。国は元々、「官医学者」として、規定の試験を突破した者だけを医師として認定する制度を設けていました。
しかし平安期に律令制度が崩壊したことによって、国家資格制度は崩壊。実際の官医学は「丹波氏」や「和気氏」など、「世襲制」となり、それぞれの系統の中に「医学の専門家」としての官医学者が存在しました。つまり、国が医学をコントロールできなくなった時代でもあったのです。
仏教が広がった拝見の裏側に…
当時、多くの庶民の「よりどころ」となったのは、仏教だったのでしょう。一般庶民にとって、新しい仏教はわかりやすく簡単な教義であったため、特に浄土宗が勢力を拡大していたようです。
流行による風紀の乱れ
しかし、浄土宗の教義である「専修念仏」(=ただひたすら念仏を唱えること)の考えから、信者の中には念仏を唱える数を競ったり、往生を急ぎ焼身や入水をする人が現れたり……という混沌とした時代だったといわれています。さらに念仏を唱えるだけに没頭し、他の修行を怠ったたり、あえて破壊行動をする僧侶まで出現するなど、幕府側も風紀の乱れについて厳重に取り締まることもあったようです。
新しい気運
そのような中、戒律の軽視や修行の怠慢に失望した人びとが目を向けたのが、奈良時代の律宗でした。律宗は厳しい戒律を守り続ける仏教の一宗派ですが、この時代にはすっかり忘れ去られていました。
しかしここにきて、一気に庶民の人気が上がったことで、規律ある仏教界を再興しようという動きが出てきました。その先頭に立ったのは「叡尊」という僧侶です。
叡尊は、奈良の西大寺※を拠点として、戒律の普及と慈善活動に心血を注ぎました。この行動と思想に共鳴した多くの僧侶が、全国から集まって来ました。僧侶たちは叡尊からの授戒を受け、再び全国各地に帰っていき、各地に末寺が広がっていきました。叡尊は「西大寺中興の祖」とされ、西大寺はその教えの総本山として再興しました。
※西大寺:奈良時代に聖武天皇・光明皇后の後を継いだ称徳天皇の命により、「鎮護国家」の思いを込め建てられた寺。平安中期以降にはすっかり寂れていた。
2つの医学書
叡尊には多くの弟子がいましたが、医療と大きく関わっていた人物として現代にもその名を残しているのが「性全」です。
性全は鎌倉の武家 梶原家の出であると言われていて、叡尊を師として仏の道を修めるかたわら、和気氏・丹波氏などによる世襲制の官医学も学んでいました。性全は僧医として、同僚の僧侶らとともに、師である叡尊が心血を注いでいた救療事業にも関わっていたといいます。
この頃の医療は、公には制度化されておらず、その上さらに、官医学よりも僧医のおこなう医療の方が、知識的・技術的に信頼されていました。
高貴な人びとでさえ、身内や自身の身体の不調を癒すために枕もとに呼び寄せたのは、官医学者ではなく僧医であったといいますから驚きです。
かなまじりの医学書『頓医抄』
性全が37歳~41歳の頃、一冊の書物を著します。それがわが国で初めての「かなまじりの医学書」である『頓医抄』です。
本来、医術というものは師資相伝の秘法とされていましたが、当時は利潤ばかり追求する医者による医療が横行しており、これを嘆いた性全が「正しい医療を広く普及させるために書いた」と、この書物を著した理由について記しています。
『頓医抄』は全50巻。その内容は多岐にわたっており、次のような特徴があります。
- 知識や技術については、宋の医学書や、それ以前の時代の中国の書物も参考にした
- 本草学※や解剖学まで広くカバー
- 解剖学には、宋の医学書に書かれていたとされるを模写
- 海外の最新情報とともに、日本の「秘伝」も併記
- 性全自身の経験を加えた構成
- 知識や技術以外の医療行為に対する姿勢や、倫理観なども記述
- 体系立てられた医学書としての評価を得る
- 常に勉強できるよう、かなまじりで記述
- 漢文の素養のない医師でも理解できる
※本草学:中国古来の植物を中心とする薬物学のこと。
もうひとつの医学書『万安方』
『頓医抄』を著した後、性全は僧侶をやめて俗人となり、有力者の支援を受けて鎌倉で医療に専念します。これまで自身が得た医学の知識・技術・経験を子孫に残し伝えておきたいと考えた性全は、『頓医抄』とは全く逆の発想で医学書『万安方』を残します。性全50歳の頃と言われています
『万安方』は全62巻で、その奥書には「子孫に伝授させて秘匿し家門を示す意図がある」とはっきり書かれています。また性全自身の注釈があり、意見や見解を述べている点が、これまでの医学書とは異なっています。
単に繰り返し考えることから脱け出し、批判などもしている点で、医学としてひとつ新しい時代に入ったと評価されています。
いかがでしたか。後世に残る優れた医学書を2つ残した性全ですが、それぞれの著作意図は真逆です。同じ人物が残した書物とは信じがたいのですが、いずれもこの時代の医療を知るための、貴重な書物であることに変わりはありません。
さて『万安方』の後、再び僧侶に戻った性全は、鎌倉の極楽寺に入り兄弟弟子を支え、僧医として医療の道を進み続けます。実は性全はこの兄弟弟子の後を継ぐことになるのですが、この兄弟弟子のおこなった多くの医療については、次回お伝えすることとします。
【参考資料】
1.系統看護学講座 別巻 看護史 2012年2月1日 第7版第10刷
著者代表 杉田暉道 株式会社医学書院
2.【論文】病を癒す仏教僧―日本中世期における医療救済―
長崎陽子(龍谷大学非常勤講師)
龍谷大学 人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センター 「仏教生命観に基づく人間科学の総合研究」研究成果 2008年度報告書 所収
http://buddhism-orc.ryukoku.ac.jp/old/ja/annual_report_ja/annual_report_2008_365-374_ja.html
3.特別講演 「医の倫理の歴史と教育」 鶴見大学歯学部 関根透
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20171215203154.pdf?id=ART0001651819
4.万安方と頓医抄の薬方
高橋真太郎(大阪大学医学部薬学科生薬学教室 助教授)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kampomed1950/4/3/4_3_58/_article/-char/ja
5.日本の医療史
昭和57年9月30日 第1刷 酒井シヅ 東京書籍株式会社